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世界楽器大事典/黒澤隆朝(くろさわ たかとも)著

【図解】世界楽器大事典

私が持っているこの本は、歯型が付いていてページはヨレヨレだ。どういうことかというと、こういうことだ。
トイレに入ってウンコをする時、この本を持って入る。ズボンとパンツを脱ぐときに両手を使うので、その時この本を口にくわえる(分厚くて噛み付きにくいけど)。だから歯型が付くわけ。 また、風呂に入る時もこの本を持って入る。風呂の湯気でページがヨレヨレで、本の角っこはフニャフニャになる。

「あなたの愛読書は?」とかいう質問があったり、自己紹介で「愛読書を書いてね」とかいうのがあるが、あれはヘンだ。 だいたい、本をよく読む人は、案外と愛読書なんてない。 愛読書という本をお持ち方は、普段はほとんど本を読まない方だと思うのだけれども、いかがかな。
1日1冊とかいうペースで読書をされる方もおられるようだけど、まさか私はそんな読書家ではない。 1週間に1〜2冊といところかな。会社員なもんで通勤の時に読む。寝る前に読む。それでもって、先程書いたようにトイレと風呂だ。 それほど読書家でもないバカオヤジであっても、「愛読書」なんてない。同じ本を何度も何度も読まないものね。
ところがどっこい、世界楽器大事典は違った。珍しく半年も読み続けている。500ページほどあって重いので通勤用には向かない。 もっぱら Toilet or Bathroom。
かようなわけで、私に愛読された本は歯型・ヨレヨレ状態で、紙がふやけて、もっこり分厚くなる。

著者:黒澤隆朝(くろさわ たかとも)
1895年(明治28年)生まれ。秋田県出身。
「世界楽器大事典」の他にも、「台湾高砂族の音楽」「世界音楽史」「東南アジアの音楽」「音階の発生よりみた音楽起源論」など多数。




1ページ目の「序章 音楽から見た楽器」を長文の引用になってしまうが紹介しましょう。

楽器とは
 楽器、それは音楽に用いる道具であろうということで、だれも怪しまない。これでは楽器が作られる前にすでに音楽があったということになる。
 しかし、私はこの考えをとらない。楽器とは音楽を作るものだと思っている。つまり楽器のなかった時代には音楽といわれるものがなかったのである。音楽と共存するものに言語があり、多くの人々は言語から音楽が作られたと思っている。
 音声は音楽の要素になることはもちろんであるが、音声はいわば人間の鳴き声で、赤ん坊の鳴き声は鳥や虫のそれと同じであり、そのままではウグイスにも鈴虫にもまさっているとは思えない。
 しかし人間は言語を発明し、話し声の魅力を感情表現に移そうとした。そして劇のせりふ、つまりエロキューション(話術)効果まで発展させた。

 大相撲の行司の掛け声、歌舞伎の科白などはそれである。しかし赤ん坊の発声の延長ではこれ以上の音声の発展は望めない。これが歌となるにはリズム、メロディという言語以外の要素の混入が必要なのである。
 歌舞伎の科白や音色が音楽であるとか、谷川の流れや松風のひびきが音楽であるとかいうのは、単なる音声に酔うか、またはなんらかの既成の美しい音楽を連想するからで、可愛いボーイソプラノの歌に、ありもしない天国や極楽の音楽を聞いたようだと、信心深いおばさま方を興奮させ、寺院のドームの上から、だれかが描いたようなエンゼルが降りてきたのを見たと強弁させたりする。
 日本の進歩的な人達は、心理は西からと思い込んでいるが、この人達は音楽は言語のニュアンスからメロディを生んだという、スペンサーやルソーの説などに興味をもっているようである。

言語以前に存在した歌
 音楽は歌から、歌は言葉からと思っている人々には以外な発言であろうが、以下私の体験を静かに読んでいただきたい。

1943年(昭和18年)私は台湾の原住民ブヌン族の調査中、まったく歌詞のないハーモニーだけの音声を聞いた。 ハーモニーの出来具合で粟(あわ)が豊作になったり、病人が恢復したりするのである。 こうした母音だけによるハーモニーが、原始の世界に音楽を作っているということを、世界の学者たちがだれも知らなかった。 もちろんザックスもシュトゥンプも、スペンサーもルソーも、そしてメルスマンも知らない。だからいろいろ心理学的にこじつけようとするのである。
 この原始人たちはピアノもオルガンも知らないし、ドレミを学んだこともない。それなのに混声を合唱している。 このことは「高砂族の音楽」という論文にくわしく書いてある。これは世界の音楽学者に捧げる私の唯一の贈り物である。
 どうしてこんな野蛮人が和音を知って歌を作るのだろう。 この事実が私の「歌より先にまず楽器があった」という証言となるのである。
 彼らはこの和音を楽弓(弓琴)の倍音から得たのである。彼らは弓をくわえて、ラッパのような倍音を作り、これでむすめを誘いだすコールサインを、青年たちがめいめい工夫して作っているのである。

 彼らのコーラスの和音も歌の旋律も、この倍音をたどっているだけで、素晴らしい和声音楽を作ったのである。
 弓の弦から倍音を聞きとることは、普通の人間ではできない。しかし、この原始人は、夜も猫のように目がきき、鼻は警察犬のように犯人の足どりを探し出すことができる。 かすかな弓の倍音を聞きとることもきわめて自然のことであろう。こうして弓は立派な楽器であることを証明した。
 以上は私の体験した音階発生のひとこまであるが、さらにもっと素朴な楽器も音楽以前に作られたはずである。
 数万年前の石器を磨くことも知らなかった時代に、人は歌をもっていたであろうか。おそらく叫び声、うめき声、笑い声があったであろう。 単語なども作られたであろうが、それでメロディを作ってうたうことができたであろうか。それよりも先に、この時代には共同生活のために、音声を補う信号具や、危険を報ずる警報器具が使われたであろう。 それは木や石や竹を打ち合わせること、空洞の木のメガフォン、角笛、ほら貝の発見であろう。 こうして打つものは、喜びの際は打楽器となってリズムをうち、ダンスを創造したのであろう。 角笛は強吹することによって、オクターブ、5度、4度の協和音を知って、ティンパニのように竹筒や木の棒で二つの音を交互に打つような工夫も生まれたであろうし、言語にその音程を取り入れることも創められたことであろう。 こうした過程を、私は音楽の発生に結びつけてみるのである。
世界楽器大事典(雄山閣)より引用
『いうなれば茶の間における肩のこらない楽器談義である・・・』とあるように、楽器の写真があって、その楽器について解説するという楽器事典ではない。 自らの経験や考え方をまず著しており、内容が私的な部分に脱線したりで、これは楽器や音楽に関するエッセイというほうがいいかもしれない。で、写真もたくさん載せている本という具合。

ともかく、明治生まれの方であるのに文体がとても読みやすい。ところどころ現在では使うのを控えなければならない単語が出てきたり、若い人には訳の分からぬ言葉も使われていたりするのは致し方ないところか。
例えば、リーガルという鍵盤楽器があるのだけれど、このリーガルとはいかがなものであるかと解説している中で、 いろんな表現があって云々のあと『・・・こうなるとリーガル千太万吉に伺いをたてるほかないのである』とかで、昭和初期の漫才コンビの名が出てきたりする。 また、『私が映画監督になったら使ってみたいシーンがひとつある・・・』から続く大正時代の音楽教師としての思い出話なんかが挿入されているあたりは、いわゆる楽器事典という枠を超えている。
ところどころにこのような『くだり』があって、黒澤隆朝という人物像が前面に出てきたり、また「事典」としての記載に戻ったりで、音楽好き・楽器好き人間の読み物としてはなかなかおもしろい本である。

私家版楽器事典 / 楽器図鑑 / 楽器の本 楽器の本 黒澤隆朝

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