ゴーストライター ・・・ とりたてて驚くことはない
朝の通勤時、車のラジオで初めてきいた。「交響曲第1番 HIROSHIMA」はゴーストライターが書いた作品だと。
驚くことはない。世の中には書籍であっても楽曲であってもゴーストライターはゴロゴロしているだろう。
どちらかというと、「それもいいじゃない」というのが私の意見。
下請けというのは世の中に無数に存在しているのであって、下請けという仕組みが無いモノづくりなんて考えられないし、ありえない。
あの名車 TOYOTA-2000GT が、ほとんどヤマハで作られているにもかかわらずTOYOTAブランドで売り出し、トヨタ自動車の技術イメージをアップさせた、といっても、別に法に抵触するわけでもない。
アップルの製品が中国製でも、いいじゃない(ちょっと話が飛躍しすぎたね)。
ただ、今回の楽曲に関するゴーストライター騒動は、ゴロゴロしている下請負の組織とはちょっと違う。
「人の心の 柔らかい場所を 今でもしめつける」という唄があったけど、そんな「人のメンタルな部分」につけこんだいやらしい商売であること。
なぜ18年間も気付かなかったのかが不思議でならないこと。
本物と偽物の区別がつかなかったのかなあ
私は、芸能や音楽販売のような業界にいるわけではない。音楽については若干の知識はあるものの、本気で音楽をやっている方の知識や技量とは雲泥の差で、比べるのも恥ずかしい。
でもね、「これはおかしい」というくらいは分かる。 例えば、和音の知識がない人が作曲していて、その曲が「C-Am-F-G7 C-Am-F/G7-C」とかの教科書通りで小節ごとにうまく編曲されていたりする。
一例なので1960年代にはやった単純なコード進行を例に挙げたけど、このように整然とコードが組み込まれるのはウソだろう、和音の知識のある人でなければ作れない楽曲である。
また、シンガーソングライターとして彗星のごとく現れた唄の抜群に上手い女性歌手。私は日本にもこんな素晴らしい人が出てきたと関心した。 鼻歌で作曲しているという。なおさら「すげえ」と思った。
なのに、何年か後の楽曲は「こんなもの商売として売ってはならない」と思うほど情けない曲がラジオから流れてきてた。それでも売れているという。どういうこと。
視聴者は曲を買っているのではなく、歌手の偶像とかブランドを慣性の法則みたいに買っているのかな。
ゴーストライターとの契約がきれて、今度はホントにソングライターとして曲を作ってみた・・・とんでもなく個性的な曲(褒め言葉ではない)であるが商品化してみるか、編曲を駆使すれば売れるだろう・・・。
てな具合か。
これを若者はいい曲としてもっと聴きたいと思っているのか・・・どうも、そうみたい。しっかりせいよ。 と、いうのは、私個人の感想からきているので、そのあたりはよろしくです。
ただ、「こんなもの商売として売ってはならないと思うほど情けない曲」を何曲か聴いてしまったのは事実である。もちろんこれも私の感覚での話であるが。
作曲の話を少ししましょう
(まずはポピュラー音楽の話になってしまうのですが)
和音を知らずして現代音楽の作曲はできない。和音の知識やその使い方は和音の出る楽器(例えばピアノやギター)を習得しなければムリだろう。
楽器が弾けないと、和音を知らないとメロディ作りはできない・・・といっているのではない。和音を知らなくてもメロディは作れる。伝統的な子守唄やわらべ唄は和音なしだものね。
ただし、現代のポピュラー音楽の楽曲は、まずコード(和音)ありきである。 作曲をしたことのない方は「作曲とはメロディを作る作業だ」と思っているでしょうが、そうではない。
多くの人は(ほとんどの人は)「和音」という言葉は知っていても和音とはなにかを、そして和音の移動のしかたを知らない。
和音の進行が気持よかったら、その和音にメロディを載せると、ある程度気持ち良い楽曲が出来上がる。少し短絡した表現ではあるし、ある程度センスがなければ無理なのだけど、これは事実である。
和音を知らずして現代音楽の作曲はできない。
古い曲で申し訳ないですがポールアンカの「ダイアナ」。このメロディを単音で弾いてごらんなさい。 なんじゃこれ。これって作曲って呼べるの? 斬新なメロディのアイデアはどこにもない。
それでも楽曲として完成されているのは「和音」のなせる技である。
もう一つ、趣向の違うところで ”♪見上げてごらん 夜の星を・・・”という曲。この曲のコードの流れはさすがで、ただの音楽好きの御仁には到底真似はできない。
この曲だって、メロディだけを単体で弾いてごらんなさい。やっぱり大したアイデアが含まれている旋律ではない。
コード進行の複数の音を伝うようにメロディが織り込まれているわけだ。「いずみたく」のこの楽曲、メロディだけを捉まえるなら、こんなのはドブにいくらでも落ちている。
コードと一体に曲作りがされているから名曲なのである。 コード進行とメロディは、作曲家の技なのだ。
レベルが違う・・・数分間を切り売りしている商業音楽とはワケが違う。
以上は、ポピュラー音楽のことを書いているが、クラシック音楽となると、桁外れにこれらの高い技量が必要となる。数分間を切り売りしている商業音楽とはワケが違う。
作曲家は、複数の楽器が鳴っている状態を脳みその中で再現できる。金管と弦の調和までもが実音なしで身体の中に響かせることができるのだ。
今回の騒動となっている、現代のベートーベンとか呼ばれているニセ作曲家はどうなのだろう。一日一緒にいれば、こんな能力があるかどうかは分かるんだと思うんだけど。
耳が聴こえなかったのか、聴こえていたのかは、私の知るところではないにしても、音楽について何らかのコミュニケーションをしていれば作曲技量のホントとウソは見破れると思うんだけどね。
耳が不自由であったこと、楽譜が書けなかったことについて
耳が聴こえなかったとしましょう。(目も耳も健全な私がいろいろと分かったような薀蓄を書くのは遠慮すべきところですが、今回ご容赦願います)
耳が不自由で外からの音が全く途絶えたとしても作曲はできる。
なぜなら、前述の通り、真の作曲家は、紙面に書かれた膨大な音符を目で読み取るだけで身体内に鳴り響かせることができるのだから。
一般人には想像もできない能力を持っている。それが交響曲レベルの楽曲を扱う人の特殊能力である。この能力がなければシンフォニーを組合上げることはできない。
今回話題のニセ作曲家は「絶対音感をたよりに作曲を続けていた」とある。
これもおかしい。作曲に絶対音感は必要ない。
絶対音感があればさぞかし便利だろうけど、絶対音感をたよりにしなくてもいい。相対音感で十分である。相対音感がないというのは俗にいう音痴である。
まさか音楽家としてドレミファソラシドの配分が分からないなんてありえない。 つまり、音楽家は実音がなくても、音楽を自分自身に聞かせることができる。
ピアノの鍵盤を見つめて、この音とこの音が同時に鳴るとこんな感じになる、と分かる。これは耳が聴こえていたころの能力であって、この能力は必要である。でも絶対音感である必要はない。
頭の中でえがいた音程と実音とが半音ずれようが4分の3ずれようが構わない。音のない世界にいるのであれば、体の中で鳴り響いているAの音が実音より10ヘルツ高くても問題ない。
物理的な空気振動がなくても音を把握できる・・・この能力は必要だ。繰り返すが、音楽家であるならばすべての人はこの能力を持っている。
あえて言うなら相対的な音程で把握できること。これで十分である。だから絶対音感をたよりに作曲をするのもひとつの方法でしょうが、絶対音感がなければ曲作りができないことはない。
次に、楽譜が書けなかったとしましょう。
これは問題です。ポピュラー音楽やジャズなんかは楽譜なんて必要ない。紙に書いたものが必要であるとするならば、コードネームのら羅列だけでいい。
さらには、ここはブレイクしようねという印を付けておく・・・そんな感じで十分。
でもね、交響曲となると楽譜がなければ話にならない。演奏家は西洋音楽のオタマジャクシをたよりに演奏することは約束事であり、その教育を受けて、その通りに脳みそが理解し出力装置である手や脚が動くのである。
シーケンサーやコンピュータで多重録音はできるが、ナマの人間に演奏を託すにはスコアに表現しなければ楽曲にならない。
楽曲のデジタル情報を転送するためにコンピュータから演奏家のお尻にプラグを差し込んでも無理である。演奏家は「あへ!」とか言ってもだえるだけである。
作曲家としての能力があるなら耳が聴こえなくても楽譜は書ける(もちろん先天的な障害ではなく、音楽理論を把握した後の障害であった場合)。
実音を聴けないのは、とても歯がゆく辛いことだろうけど、楽曲の編成は頭の中で組み立てられる・・・(と、偉そうなことを書いてしまっていることを自覚しつつ次に書き進む)。
楽譜は楽譜書きを清書する専門家(写譜屋さんというのでしたっけ)がいるので、その人達に任せるのは通例。それが通例にしても、何を見て、何を聴いて楽譜書き専門の人が楽譜を書いたのだろう。不思議である。
NHKの取材スタッフは、このあたりを読み取れなかったのだな。
聴く人達のいいかげんさ
ビートルズの「Norwegian Wood」という曲をご存知だろうか。「ノルウェイの森」と和訳されている。
英語が分からない私には「・・・Norwegian Wood」の部分しか歌詞を聞き取れないので「ノルウェイの森の中」を歌っている唄だと思っていた。
曲の雰囲気も「森の中」を連想させた。歌詞の内容は省略するがまったくもって違うことに日本語訳を読んでわかった。
私の感覚は全くもっていい加減である。
そう、音曲に対する人の感覚はデタラメである。私が特に際立ってデタラメなのかもしれないけどね。
話題の曲は当初は「交響曲第1番 現代典礼」という作品名で制作しており、世に出す時に「HIROSIMA」と名づけたようだ。
さあさあ、「原爆投下後の20分間の広島を表現した」とインプットされると、その気になって聴く。
そんなもんだ、人の感覚とは。
まさかテレビでやってる「笑点」のテーマソングの ♪ツンタラ ツタラタ ツンツンツン パフ! が「原爆投下後の20分間の広島を表現した」とコメントされたら、それはちゃうやろ、というくらいは判断がつく。
でもオーケストラの重圧なハーモニーと、柔らかく、また激しく流れるメロディ、ティンパニやシンバルのアクセントは、
「恋の苦しみを表現しているのだ」「生きている喜びを音にした」「夕日が沈む時間の流れをメロディにした」「雑踏の中の孤独を内面から表した」「空を飛ぶ鳥の様をバイオリンの弦に委ねた」
「太陽の恵みの色光ハーモニーが音のハーモニーとして私に降り注いだのだ」 ・・・・・とかなんとかで、何にでも置き換わる。置き換わっても、「なるほどなるほど」と思ってしまう。
楽曲のイメージのとらまえ方は、季節や体調や経験や外部からの刷り込みにより、本物は何かの答えはない。
でも、人物の本物と偽物が分からないのは不思議である。
ちゃんと見抜いていた人も少なからずいるんだろうな。そんな一人。
ある立派な音楽家のエッセイを引用させてください。ニセ作曲家が有名になりだしたころから、当騒動の楽曲と宣伝方法には違和感を感じていた、とある。
端的に言ってその音楽は、丹精込めて仕上げられた工芸品のように思われた。
真っ当にクラシック音楽の教育を受け、あらゆる作曲技法に長けた知性に優れる人間が、都度つど何らかの書法の制約を自らに課しながら書き上げたものだと「わかった」・・・・・・
・・・・・泣ける音楽にするための――言い換えればマス・マーケットに届けるための――打算であったに違いないと想像した。売る気満々で書かれた、嘘にまみれた、いやらしいパッチワークなのだろうと想像した。
http://www.morishitayui.jp/samuragochi-niigaki/
これを書いた音楽家は、「曲はとんでもなく素晴らしいので悔しかった」とも書かれていた。本音を語る素晴らしい人だと思う。
そして、今回の発覚で違和感が拭いされたのだろう。
消費者は絵画や楽曲の良い悪いは自分で判断できない。これは良いと言ってくれないと良いと思わない。
世界中にいる優れた芸術家は、商業ベースに乗らなくては、そして組織だって運営できなければいくら優れていても陽の目を見ない。
お笑いの芸能人が、映画監督をやる。映画作りに必死に取り組んでいる埋もれた才能はうもれたまま。商業べースにのるブランド人の名のもとに映画を作る。
下請けは、世の常である。否定はしないし、これがあるから経済が回っている。でもね、行き過ぎるのは・・・人間のメンタルな部分にウソを注入して商売する・・・これはつらいですね。
(2014年2月)